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済生春秋

第72回 フロンティアはどこに

 2月初め、北海道帯広市に行った。
 飛び立つときの東京は、20度近いという異常な温かさだったが、帯広は、厳寒だった。雪は止んでいたが、野原一面雪で覆われ、路面は凍結していた。東京とは別世界だった。

 昨年秋に黄綬褒章を受けられた宮嶋望さんの祝賀会が、帯広市のホテルで開催された。宮嶋さんとは15年ほど前に知り合った。
 以前から私は、社会的ハンディキャップを有する人が、伝統的な福祉の方法でなく企業経営的な方法で就労の場を創設することを模索していた。
 しかし、現実は、厳しかった。
 そんななか、宮嶋さんを紹介された。彼は、帯広市に近い新得町の山麓に共働学舎を設立。障害者、引きこもりの若者など70人ほどで酪農を行ない、世界で通用するチーズの製造に成功した。

 帯広市には、度々訪問した。明治時代以来、私の出身地である富山県高岡市から多くの人が帯広市に移住した。現在の帯広市居住者で高岡市にルーツを持つ人が多いので、引き寄せられるのかも知れない。
 明治維新以降、国の奨励で本州などからたくさんの人が北海道に移住した。郷里での生活難から、新天地を求めた。
 北海道は、富山県と関係が深く、出身者が多い。私の曾祖父、祖父は、北海道で活発に商いを行なっていたらしい。かなりの稼ぎも得たのだろう。戦前、函館にある神社に石灯篭(いしどうろう)を寄進したという記録が残っている。5年前、函館を訪れたときに、その石灯篭を探すため神社を訪れたが、見つけられなかった。
 この祖父は、戦前、函館で列車事故のため30代で客死した。
 当時の日本人にとって北海道は成功するチャンスがたくさんある土地だった。挑戦する価値のあるフロンティアだった。

 今日、未踏のフロンティアは、少なくなったのだろうか。
 しかし、フロンティアは、今でもどこにでも見つけられる。地理的なフロンティアだけでない。事業、学問、芸術などあらゆる分野で人がいまだに到達していないことが無限にある。
 宮嶋さんも独力でフロンティアを開発した男だ。
 このフロンティアへの挑戦は、年齢を問わない。誰にでも挑戦する価値のあるフロンティアがある。
 大切なことは、自分に合ったものを見つけ、行動する勇気だ。

炭谷 茂

すみたに・しげる

1946年富山県高岡市生まれ。69年東京大学法学部卒業、厚生省に入る。自治省、総務庁、在英日本大使館、厚生省社会・援護局長などを経て2003年環境事務次官に就任。08年5月から済生会理事長。現在、日本障害者リハビリテーション協会会長、富山国際大学客員教授なども務めている。著書に「環境福祉学の理論と実践」(編著)「社会福祉の原理と課題」など多数。

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