済生会は、明治天皇が医療によって生活困窮者を救済しようと明治44(1911)年に設立しました。100年以上にわたる活動をふまえ、日本最大の社会福祉法人として全職員約64,000人が40都道府県で医療・保健・福祉活動を展開しています。
済生会は、405施設・437事業を運営し、66,000人が働く、日本最大の社会福祉法人です。全国の施設が連携し、ソーシャルインクルージョンの推進、最新の医療による地域貢献、医療と福祉のシームレスなサービス提供などに取り組んでいます。
主な症状やからだの部位・特徴、キーワード、病名から病気を調べることができます。症状ごとにその原因やメカニズム、関連する病気などを紹介し、それぞれの病気について早期発見のポイント、予防の基礎知識などを専門医が解説します。
全国の済生会では初期臨床研修医・専攻医・常勤医師、看護師、専門職、事務職や看護学生を募集しています。医療・保健・福祉にかかわる幅広い領域において、地域に密着した現場で活躍できます。
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5月12日、現地時間午後2時28分、四川省汶川(ぶんせん)県でマグニチュード8.0の地震が発生、死傷者、行方不明者数は甚大であるという情報でしたが当初中国側からの救助隊および医療班の派遣要請はありませんでした。しかし5月15日、中国側が救助隊の受入れを承認、同日夕方日本緊急援助隊救助班が成都へ向け出発、現地での活動を開始し、私達医療班(医師4名を含む計23名)は20日、成田空港から成都へ向け出発しました。
私は2005年パキスタン地震の時にも緊急援助隊医療班として派遣された経験がありましたのでその時の状況を思い浮かべて成都に降り立ちました。当時は山間部の崩落した町に日本の医療テントを張り、そこで各国の援助隊等と協力しながら救援活動を行いました。したがって今回も中国側からそういった被災地での活動を要請されているものだと思い込んでいました。
しかし中国側(正確には四川省側)は当初500床ほどの四川人民第一病院での活動を要請してきました。被災国の要求があればそれに応えるのが援助隊の役割とは全員認識はしていましたがあまりにも患者も少なく、日本側としては別の病院を紹介して欲しい旨を伝えました。これで活動開始が1日延びてしまうことになりました。日本国内でもこのことに対しては賛否両論があったことと思います。なぜ要請を断ったのか、早く活動を開始しろ云々。でも私たちとしても苦渋の決断だったのです。
次に紹介された華西病院(紹介してもらえるまですごく時間がかかりました。ベッド数4300床、ICU120床等々の世界一の規模を誇る病院です)で活動することになったのですが…。22日午前中に病院側と折衝がありました。しかしこの時も病院側から伝えられたのは被災地から患者は集まってきているが、医療従事者の数は中国各地から応援が来ているので充たされている。日本側の医療行為を求めているのではなく医療知識・経験が欲しいといったものでした。
日本側は手術室での活動、整形外科病棟での活動等を提示したのですが、上記した通り充たされているということで要求は通りませんでした。しかし冷静に考えてみれば、相手がどの程度の医療技術や知識を持った人間が集まって来ているか分からない段階で「じゃあ手術室で外傷の手術をしてください、救急外来で外傷の治療にあたってください」とは簡単に言うわけにはいかないでしょう。ということで私たちとしては日本側がこんな技術・知識を持った集団ですよということを病院側にまず理解してもらいそれから活動範囲を広げてもらおうという判断になり、22日午後から活動が開始になりました。
この華西病院がある成都という街について簡単に説明しますと、人口は1300万人で被災地から車で約1時間南へ走ったところにあります。街並みを見ると高層ビルが立ち並び中国の経済発達を目のあたりにすることができます。被災して倒壊した建物は周りを見渡しても見つけることが出来ません。食料に困ることもありませんでした。
ですから被災国の援助に来たといっても被災地を見ることもかなわず(TVでは毎日CCTVが被災地の状況や人民解放軍の活躍をプロパガンダ的に放映してましたが)、ましてや被災地での医療活動もできないという状況に置かれてしまったわけです。ですから実際活動が開始になっても医師の立場の4人は日々葛藤を繰り返していました。ある者はニーズがないなら活動を中止し帰国もやむなし、ある者は被災地へ入っての活動をするべきだ、いやいやこのままこの病院で活動を継続していくことが大切だなどと意見をぶつけ合う毎日でした。
さらにはドイツ、イタリア、ロシアから医療班が中国に入り被災地での活動を開始しているといった情報が入ってくるわけです。どうして日本は認めてもらえないのか!といった感情も芽生えてきていました。
しかしこういった議論を繰り返した結果「この病院で最後の最後まで活動をしていこう。必ず日本からきていることが中国の国民には伝わるはずであるしそのことが一番大切だから」との空気が芽生えてきました。その後は救急外来、透析室、ICU、産科病棟、薬局、レントゲン室などで活動を継続、治療法の意見交換や勉強会を開催し活動を終え6月2日帰国の途につきました。
今回の派遣は何名患者を診察したというような成果は挙げることはできなかったと思っています。しかし帰国する時には日本のテントには数多くの現地の人々が訪れてくれました。ある朝、テントに行くと中国の方からの寄せ書きがさりげなく掲げてあったということもありました。
患者さんは泣いて喜んでくれる方も多かったです。四川は日中戦争の面影が強く残る街です。そんな場所へ日本からの援助隊が入って活動をし、中国国民の方々に受け入れてもらえたということが一番の成果であったと思っています。これを書いているころ東北地方で震度6強の地震がありました。この時中国内で「今度は中国が日本へ援助隊を送る番だ」といった声が多く挙がっていると聞きました。こういったことを聞いてもいい活動ができたのかなと考えています。お金や物資が動くだけではなく人が動くことが大事なんだということを本当に実感しています。
まだまだ書きたいことは山ほどありますが誌面の都合上これぐらいにしたいと思います。日本からの応援ありがとうございました。