済生会は、明治天皇が医療によって生活困窮者を救済しようと明治44(1911)年に設立しました。100年以上にわたる活動をふまえ、日本最大の社会福祉法人として全職員約64,000人が40都道府県で医療・保健・福祉活動を展開しています。
済生会は、405施設・437事業を運営し、66,000人が働く、日本最大の社会福祉法人です。全国の施設が連携し、ソーシャルインクルージョンの推進、最新の医療による地域貢献、医療と福祉のシームレスなサービス提供などに取り組んでいます。
主な症状やからだの部位・特徴、キーワード、病名から病気を調べることができます。症状ごとにその原因やメカニズム、関連する病気などを紹介し、それぞれの病気について早期発見のポイント、予防の基礎知識などを専門医が解説します。
全国の済生会では初期臨床研修医・専攻医・常勤医師、看護師、専門職、事務職や看護学生を募集しています。医療・保健・福祉にかかわる幅広い領域において、地域に密着した現場で活躍できます。
一般の方の心身の健康や暮らしの役に立つ情報を発信中。「症状別病気解説」をはじめとして、特集記事や家族で楽しめる動画など、さまざまなコンテンツを展開しています。
済生会では、全国の済生会での取り組みなどを紹介する機関紙「済生」を毎月発行しています。その中で「看護師にまつわるちょっといい話」を掲載する「なでしこナースのストーリー」コーナーでは、看護師と患者さんの心の交流や看護師がやりがいを感じる瞬間など、心温まる話を掲載しています。
今回、これまでに掲載されたなでしこナースのエッセイ86編を書籍にまとめました!
カルテの結婚式 息子の結婚式に参列したい末期がん患者さんに、看護師として何ができる…?
試し読み
Aさんは、虫垂がんを外来で治療していました。10月16日、腹膜播種と多発性肝転移で腹痛、血尿、倦怠感があり、一人では歩くことができないほどの痛みで入院となりました。
Aさんは、死を受け入れながらも心を病んでいる妻のことをとても気にし、また、次男の結婚式参列を父としての最後の仕事と決めておられるようでした。入院当初は痛みがひどく歩行も困難な状態で、結婚式への参列はとても厳しい状態でした。ご家族はビデオレターでの参加を検討しておられましたが、病院スタッフは、Aさんの気持ちを考えるとあきらめられず、治療に当たりました。そして疼痛コントロールに成功し、無痛で食事も取れるようになり10月28日に退院。11月1日の結婚式には自力歩行で参列することができました。
その翌日、担当医師と、かかわったすべてのスタッフ宛の手紙がAさんから届きました。
「最後まで臨席することができ、新郎の父として、謝辞を述べることができました。入院中の励ましが家族みんなの支えになり、電子カルテに11月1日結婚式と書かれているのを見て胸がいっぱいになり、結婚式までがんばろうと思えました」
1週間後、体調悪化で入院となり、11月10日、天国へ旅立たれました。
その後しばらくして、ご家族が病棟に見えました。Aさんが心配しておられ、スタッフも気になっていた奥様が前向きになられたとのこと。スタッフ一同、安堵したのでした。
これからも、当院の看護目標である「その人の持てる力を活用する」を心に刻み、ご本人や家族の支えになっていこうと思います。
災害ナース 「平成23年3月11日を、私は決して忘れない」
救急看護認定看護師の、東日本大震災での体験記。
試し読み
平成23年3月11日を、私は決して忘れない。
救急看護認定看護師だった私は、「何かしたい」と、当然のように日本看護協会の災害支援ナースに登録。大阪にある当院の全面的なサポートを受け、宮城県石巻市に入った。
被災地という場所に初めて入った私が派遣された所は、港にほど近い避難所だった。蛇口の付いたゴムプールに貯水された水で手洗いし、壊れた仮設トイレが半数以上もあった。ヘドロが悪臭を放つ。劣悪な衛生環境に、これが先進国である日本の姿かと大きな衝撃を受けたことを、今でも鮮明に覚えている。
しかし、いったい何の役に立ったのだろうか?
3日間で十分な支援ができたのだろうか?
意気揚々と被災地に入ったにもかかわらず、多くの疑問符を抱え、達成感もなく、申し訳なく、恥ずかしい思いで帰路に就いたことも覚えている。
あれから5年。少しずつ気持ちの整理を行い、時には自分を奮い立たせながら、今でも災害看護に携わっている。支援ナースの経験をもとに、できるようになったことがある。まだできていないこともある。
しかし、これだけは自信を持って言える。救急看護認定看護として私の使命は、東日本大震災の教訓を次世代に伝えること、風化させてはいけないことだと思う。