社会福祉法人 恩賜財団 済生会(しゃかいふくしほうじん おんしざいだん さいせいかい)

スマトラ沖大地震・インド洋津波災害 (スリランカ、タイ、インドネシア)に関する緊急援助(6)

~スマトラ派遣記~

福井県済生会病院 看護師 作川 真悟

JICAから派遣の要請が来たのは、前日の午後4時のことだった。「明日の9時に成田にいけるか?」普段から、緊急援助隊として一度は活動してみたいと思っていたのは事実であり、もちろん即答でOKしたものの、実際スマトラ行きが決定したときは、しばらく頭が真っ白になった(ちなみにパンツは、まっ黄色になった)。飛行機のチケット、下着や服の買い付け、現地の情報収集、荷物のしたくなどに追われて、結局、ほぼ不眠状態で朝を迎えた。前日、オペ室の人たちから笑顔でもらった餞別で大量に買ったカロリーメイトをかじりながら朝8時の成田行きに乗るべく、小松空港に向かったのである(さすがにパチンコでスッてしまったとは口が裂けても言えない)。成田行きの飛行機は、ゼロ戦みたいなポンコツだったが、機内から見た富士山がとても綺麗で、びくびくしている私を勇気づけてくれた。かくして遅刻ぎりぎりで成田に到着。成田では、一般人は(多分)入れない「特別待合室」に集合。豪華な名前だが、いすと机があるただの小汚い部屋である。そこに、外務省や大使館関係者、何社もの(実は2社のみ)プレスに囲まれて結団式を行う。ほどよい緊張の中、自己紹介を終えいよいよ出国である。済生会代表の前に日本代表である責任が重く肩にのしかかった。
今回の活動サイトは、一番津波災害がひどかったスマトラ島北端のバンダ・アチェという都市である。とりあえず、ジャカルタで現地の大使館、JICA事務所の人たちと打ち合わせをして、できる限りの情報収集をした(アチェでは酒が禁止等)。そのあとは最後の晩餐のごとく、ジャカルタの「ハードロックカフェ」で胃の中をアルコールで満たしておいた。翌日、アチェに向かったのだが、いかんせん、交通手段が完全には復旧していないため、隊員二人の航空券が取れないというアクシデントが発生。結局二人はアチェ入りが一日伸びた(その2名に入れなかったのがとても残念に思う)。
現地で前隊からの引継ぎをしていよいよ診療開始である。その中には、研修で見覚えがあった「野江病院」の渡辺ナースもいた。やはり、渡辺ナースは最終日だったせいもあり、満面の笑みで私たちを迎えてくれた(すっぴん具合にも磨きがかかっていた)。回りには、韓国、スイス、ノルウェー、ドイツ、オーストラリアなど世界中の医療チームがテント診療をしている。インドネシアの人たちは、日本医療をとても高く評価しているため、日本が活動を始めてからというもの毎日大勢の患者が朝早くからテントの前で待っているのだ。これだけ私たちを信頼してくれているということに対して、とても気持ちがよかった。診療サイトに到着するとまず最初にするのが前日のゴミ燃やし。それから医療器具の消毒である。煮沸消毒が意外と時間がかかり大変だった。
患者をみてみると、やはり外傷と消化器疾患が多数を占めた。私は外科の診療テントに入ったのだが、とにかく患者が一気にくるので、ドクターに全部見てもらうわけにはいかず、ガーゼ交換や簡単なデブリードメントくらいはしなければならないのである。テント内の気温は三十五度前後、湿度は七~八十%程度が普通である。ぬるま湯のようなペットボトルの水を無理して飲みながら約6時間ぶっ通しの診療が三日続いた。気が付くと、最終日までに隊員七人のうち六人が熱中症や下痢症になってしまった。私は大丈夫だと思っていたのだが最後の診療日には、宿舎に戻った瞬間三十九度以上の熱発。3リットル全開で輸液を入れてもまったく尿が出ないくらいの脱水を起こしていた。食事もまったくうけつけないのだ同時に下痢にもなってしまい、体がカスカスになってしまった。(帰国してから体重を量ったら5キロやせていた)。私の勤務しているオペ室の何人かも行けばよかったと思う。たくましい彼女たちならきっと2~3キロは太って帰ってきただろう。
外国で診療をする上で重要なのは、やはり言語である。通訳をいちいち介していたら時間がもったいない。私は得意のフィーリングで応対。「イエス」と「ヤー」と、アチェ語でありがとうを意味する「トゥリマタシー」、この3つで8割は何とかなった。残りの2割は笑顔で何とかなるものである。心細かったらそれに握手を加えればなおよい。さらに、現地の通訳に日本語でお願いすると、ある程度のことはやってくれるので、これで完璧である。実は、通訳の人にいろいろと手伝ってもらっていたのだが、最終日に話を聞いたら、その人たちは現役の大学教授などであることを知り、これまでタメ口を利いていた私は、手のひらを返したように丁寧語でお礼を言った(いやらしい日本人を印象づけてしまっただろう)。
そうこうしている間に気がつくと最終日前日の宿舎。全体ミーティングも今日で終わり。まずいご飯とお別れするのも寂しい気がする。トイレの水での体洗いともお別れ。その日の鏡には、真っ黒に日焼けした顔に無精ひげ、そして満面の笑みを浮かべたキモい私が映っていた。
いよいよ帰国である。ジャカルタで待ちに待ったビールを飲み、(しつこいようだが、アチェはイスラム国家なのでアルコールが禁止なのだ)夜十時にインドネシアを出国。なんと、帰りのJAL便はビジネスクラス。もちろんだが、私は初めての体験である。隅々まで観察して、シートも動かせる部分はすべて動かして(なんとマッサージ機になっているのだ)、リモコンも片っ端から押しまくって何回もスッチーを呼んでしまった(スッチーを呼ぶボタンがあったのだ)。機内食はなんと「お寿司」ではないか!気が付くと無意識のうちにむさぼり食っていた。疲労は極限に達していたはずなのに、寝るのがもったいなくて小市民の私は、一睡もせずビジネスクラスを堪能していた。のもつかの間、ジャカルタで飲んだビールのせいか、下痢が再発してトイレにもお世話になってしまう。しかし、機内で何度もトイレに行くと、チェックされて入国時に引っかかってしまうと聞いた為、限界まで我慢しながら成田までなんとか3回でおさえた。もちろん、入国時には下痢はしていないと堂々と用紙に記入した。空港に到着後、真っ青の顔をした私は急いでトイレに向かう。そーっと下着をチェックしてみたら、パンツの中までは抑えられなかったという所見だった。
成田で解団式を終え、隊員のみんなと握手を交わし、再会を約束し帰りの飛行機に乗った。帰りもオンボロ飛行機で、もう外も真っ暗だったが、私の心には行きの飛行機の中から見た富士山がはっきりと見えた。
かくしてミッション終了となる。
この文章を読むと、遊んできたと誤解する人もいるかもしれないが、本当はとてもキツかったのである。まじで。しかし、また次の要請があれば私は迷わず行くだろう。なぜなら私はパチプロではなく緊急援助隊だから・・・。

 

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  1. インド地震に関する緊急援助(固定ページ | 2001.9.27)