社会福祉法人 恩賜財団 済生会(しゃかいふくしほうじん おんしざいだん さいせいかい)

スマトラ沖大地震・インド洋津波災害 (スリランカ、タイ、インドネシア)に関する緊急援助(3)

インドネシア2次隊に参加して

栃木県済生会宇都宮病院 看護師  毛塚良江

 今回、私はスマトラ島沖地震・インド洋津波が発生に対する、国際緊急援助隊・医療チーム(以下JMTDRと略す)インドネシア2次隊に参加しました。
<JMTDRに登録するまで>
 派遣されるまでには、JMTDRの登録が必要となります。私の場合、阪神大震災時、私にも何かできることはないか、と思っていました。その当時は何をしたらいいのか分からず、テレビの映像を見守ることしかできませんでした。何かやってみたいと思っていたところ、しばらくしてからJMTDRの募集が院内にもあり、さっそく申し込みをしました。導入研修を受け平成10年に登録しました。導入研修を受けた頃は海外で災害はそれほど多くなく、JMTDRの派遣の機会は少なかったようです。私が派遣されることは、まずないだろうと思っていました。その後、登録メンバーを対象にした定期的な中級研修があり、私自身の勉強にもなるので参加していました。
 平成11年、災害が世界各地で発生しました。9月に台湾大地震が発生した時、私にも派遣の機会が巡ってきました。災害発生直後で、出発まで時間がなく慌しく実感がわきませんでした。病院を2週間離れ、日本以外の地で、初対面のメンバーと行動することができるのか、不安と緊張で羽田空港に向かったのを覚えています。
<インドネシア2次隊派遣にいたるまで>
 今回、昨年の暮れ12月26日にスマトラ島沖地震・インド洋津波発生のニュースをテレビで見た時、津波の猛威と被害の大きさに驚いていました。日本でも10月に新潟・中越地震が発生したばかりでした。JMTDRのメンバーが次々に派遣され、活動しているニュースが流れ、メンバーの無事・安全を願いテレビを見ていました。年が明けてからも毎日、被災地のニュースが流れていました。被害の大きさに2次隊派遣の情報がありました。
1月6日休日の午後、2次隊派遣要請の連絡が病院にあったと電話があり、“やっぱり”と思いました。しかし現状を考えると年明けで、2週間も病棟を留守にする事は、かなり難しい状況であることを分かっていました。上司からも“行くことは難しい”と言われ、今回の派遣は見送りと思っていました。その後、職場の理解と協力が得られ、行けることが決定したとの連絡が入りました。それから行く日を決定し、翌日は通常の日勤業務をしてから帰宅後、派遣の準備をしました。
<出発から現地到着、現地状況>
 1月8日9時30分に成田に集合し結団式。この時、インドネシア2次隊第1陣、団長、副団長(JICA職員・医師)2名と顔合わせをし、成田を出発しました。スケジュールを聞き、私の役割が1次隊からの引継ぎのメンバーの1人ということがわかりました。看護師は私一人で責任重大!私で大丈夫?と少し不安に思いながらジャカルタに到着しました。
ジャカルタに到着後、外務省、JICA職員より被災地の状況を説明され、被災地の状況を把握しました。翌日9日被災地スマトラ島北部バンダアチェに向かいました。昼頃、診療テントに到着しました。診療テントは海岸より数キロ離れたサッカー場にありました。暑さの中、1次隊のメンバーは忙しく活動していました。さっそくメモを片手に各テントへ周りました。テントは受付、診療テント外科・内科、薬局、医療資機材があり、それぞれ医師、看護師、医療調整員、業務調整員が配置されていました。津波後10日が過ぎていましたが、外傷患者が多く創処置が大半を占めていました。約100人の患者を診察し2時頃に診察終了。この頃雲行きが怪しくなって、激しいスコールのみまわれました。この時期は雨期で毎日スコールが続き、診療テントのある地面はドロドロでした。宿舎に戻り、夕食の準備、水浴び、カルテ入力などがありました。宿舎は民家を借りていたので20人を超えるメンバーで足の踏み場がないほどでした。2次隊は人も増え、貸主の人が戻ってくることもあり、少し広めの民家を借りる予定でした。早めに借りることができ、ミーティング後4人で2次隊の宿舎へ移動しました。貸主の人との共同生活が始まりました。現地は英語が通じず、インドネシア語でした。インドネシア語はさっぱり分からず、ボディーラングウエイジで、乗りきろうと思っていましたが、私に対し現地の母と娘のインドネシア語講座が始まり、親切に教えてくれました。ちょっとしたホームステイ気分で活動以外の楽しい時間を持つこともできました。
翌日10日は1次隊と一緒に活動しました。私は各テントに入り、一通りの流れを経験しました。1次隊は、この日で活動終了。全員にホッとした笑顔がありました。私も最後の日この笑顔がでるように頑張ろうと思いました。
11日は第2陣が到着し2次隊全員が揃う日。それまでは現地JICA職員に受付を手伝ってもらい、医師と看護師の私と2人で診療を開始。前日にJMTDRのメンバーが減ることを知らせて再診の制限をし午前中約50人の患者さんが診療所を訪れました。ガーゼ、包帯、消毒の数が残り少なく鑷氏などの物品も消毒が間に合わないほどでした。いったん医師には診察を中断してもらいました。接し鑷子などの機械器具の洗浄・消毒、ガーゼ・包帯の補充をし内服薬もたくさんあり医師と相談し処方の制限をしてもらい、再び診察。昼過ぎに第陣がバンダアチェに到着し診療所で合流。診察は終了し、さっそく足場の悪い診療テントを大移動しました。その後宿舎に移動し初めて2次隊全員が集合し全体ミーティングです。今回のメンバーには済生会の職員が私を含め3人いました。皆、初対面でしたが済生会の職員ということで、とても心強かったです。
翌日12日より19日まで2次隊全員が揃って診察にあたりました。毎朝5時を過ぎると暗闇からコーランが聞こえ起床です。朝食後7時に宿舎を出発し、診療テントを準備し8時頃より診察開始。日本は真冬で年末に大雪にみまわれていましたが、インドネシアは夏日です。日中の気温は35℃を超えていました。雨期で地面はドロドロ、暑さで汗は流れるので首にタオルを巻き、長靴をはき、片手にはミネラルウオーターのスタイルはくずせませんでした。2時には診察を終了し宿舎に戻り、カルテの入力、ミーティング、水浴びをし9時には就寝。とても規則正しい生活が送れました。患者数は減少することなく1日100~150人で、うち外科患者は50人程でした。後半は下痢症、風邪や津波後から顔を洗えない、眠れないなどのPTSDが多くなってきました。津波後による心の傷の深さを感じとることができました。
被災地の凄まじい状況はまだ記憶に新しく、時々テレビで復旧の様子が流れます。まだまだ現地では復旧が進んでおらず、これからが大変な時です。今回、医療チームに参加してあらためて災害時、自分に何ができるのかを考えました。不幸にも災害が起きた時は今回の経験を生かし、一人の人間として、看護師として医療の現場に参加し、被災者のケアをしていきたいと考えています。

 

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  1. インド地震に関する緊急援助(固定ページ | 2001.9.27)