社会福祉法人 恩賜財団 済生会(しゃかいふくしほうじん おんしざいだん さいせいかい)

スマトラ沖大地震・インド洋津波災害 (スリランカ、タイ、インドネシア)に関する緊急援助(2)

岡山済生会総合病院 主任看護師 赤沢由子

2004.12.26インドネシア、スマトラ島沖において大規模な地震が発生しました。
テレビ、新聞で「国際緊急援助隊がスリランカへ派遣した」と報道があり、私は今回もいけなかったなと思っていました。年があけて1月6日友人と少し送れて初詣に行って帰っているとき病院より要請の電話がありました。私は一瞬揺らいだ気持ちを振りきりながら「行きます」と参加の意思表明をしました。それからが大変でした。夕方17時に決定したためそこから明日の8時頃には成田空港に着いておかなくてはいけなく、どうやったらいけるのか思案しました。明日の朝、岡山を旅立つのは遅く間に合わず、今日中に東京に行くことがいいことに気づきました。間に合うのか?行くのは間違っているのか?断る勇気ももたなくてはいけないのか?親はどう思うだろう?準備をしながらいろいろなことが頭のなかに浮かびました。両親はいつかは行くこともあるのだろうと思っていたようですが急な話であり、私以上に戸惑い心配を多く持っていたようです。(私はタイにいる間時間の許す限りは連絡し元気でいることを伝えていきました。父は大好きな焼酎を断っていたそうです。)両親にも了解をもらい、19時45分岡山発の羽田行きに何とか間に合い岡山を出発しました。要請から約2時間30分後でした。自分でも良く準備できたなと我ながら感心しました。岡山空港には急なことにもかかわらず、岩本常務理事、江木副院長、病棟の山本師長、秘書課の高市さんが見送りに着てくださいました。それまで「本当に私が行っていいのか?私にできるのか?」と不安がつのっていたものが、上司の方々の顔をみてがんばってこようと決心しました。その日は東京に一泊したのですが、詰め所のスタッフや友人から激励のメールをたくさんもらい、またそれも私のタイへ行く力強いお守りになりました。
次の日、成田空港に行き、一緒に行かれる専門家チームの方、医師の方と顔あわせをして、出陣式をしました。今回、女性は私ひとりでした。タイへ行ってもヘリ部隊の方々も男性のためチームの中では女性一人でした。チームの中に女性一人という戸惑いもありましたが、現地では通訳の方や、JICAの方に女性の方もおられひとまずは安心したのを覚えています。
今回の私の仕事は、国際緊急援助隊として、タイ国南部(プーケット)に捜索・消防ヘリチームの帯同看護師(医師1名、看護師1名)でした。派遣期間は1.7-1.20です。
業務内容は、タイ津波災害対応日本派遣チームの後方支援(健康管理)、医療資機材、
医薬品の管理、供与物品リスト作成、医療廃棄物の処理、現地視察などでした。
国際緊急援助隊タイ津波災害派遣チームは主に6チームから編成されています。
①自衛隊ヘリ;12/29-1.1 ②救助チーム;12/29-1/6 ③医療チーム;12/30-1/12(タクアパーに診療サイト)④鑑識・鑑定チーム;1/4-1/16(クラビ) ⑤消防ヘリチーム;12/29-1/20(プーケット) ⑥捜索チーム:1/8-1/20(プーケット)
現地の状況は、タイ国の津波被害はタイ南部のマレー半島西側が主で、パトンビーチ、バンダオビーチの他、カオラック、ピピ島は壊滅的打撃を受けていました。診療サイトのあったタクアパーも漁村が津波にのまれていました。中心地のプーケットタウン、空港などに被害はありませんでした。現地はすでに重機で整理されている場所もありましが、500メートル以上奥まで津波が押し寄せた傷跡が随所に残っていました。沼地化した場所もあり、そこに遺体があるため軍のボート、ポンプアップなどによる捜索が続いていました。県庁、市庁舎、病院などの玄関には多くの行方不明者が掲示されており、子供、海外渡航者の多さが際立っていました。鑑識・鑑定は歯型、指紋、DNAサンプルの採取をタクアパー、クラビなどで行っており、その状況は大変過酷なものでした。これらをデータベース化する作業がプーケットで始まっています。診療サイトのあったタクアパーの避難所では、衛生面はタイ国保健省によって管理されており、飲料水、トイレなどの管理は十分でした。もちろん、感染症もないです。病院では被災者の治療が現在も続けられていますが、バンコクからの医師・看護師チームの派遣もあり、日常診療に支障がないレベルまで落ち着いてきている状態でした。
1月中旬にはパトンビーチなどの復興プランが討議されるようになってきており、タクアパーの避難所でも仮設住宅が建設されました。復興計画は急ピッチで進められています。
私は日本チーム後方支援として、健康管理をしていましたが、鑑識・鑑定チームがいるクラビまで車で片道2時間30分かけて健診へもいきました。検視作業は大変、高温、多湿の過酷な状況であり、日本チームの中には脱水症のほか、塩分喪失、水多飲による低ナトリウム血症を疑わせる症状が出現しているスタッフもいました。鑑識の場所は屋外で死臭もありました。感染に充分気をつけての作業でした。中に入るときはマスクに死臭をまぎらわせるためのバニラエッセンスをつけて、はいりました。シートに包まってあるご遺体が鑑識を終えて、再びご家族のもとへ帰れるまで冷凍庫にはいる準備をしていました。鑑識の外ではご遺体の写真がありご遺体はほとんど腐敗がすすんでいて見分けがつかない状態でした。目を開いたままのご遺体や、遺体の損傷が激しいのもあり、アジア系なのかも判断しきれませんでした。ここで津波のすさまじさ、こわさを再確認しました。消防ヘリ・捜索チームも炎天下、高温での作業が続き、かなりの疲労が蓄積してましたが、感染症はありませんでした。しかし、長期に渡る派遣、毎日の過酷さで精神的にも苦痛を感じ、眠れなかったり、発熱症状がでたスタッフもおられました。いつも内服している薬が長期滞在のためなくなった方もいました。このため、薬の調達、処方や点滴などホテルで施行したりしました。また、急性盲腸炎の疑いの方もでてきて、急遽日本へ帰るようになった方もおられました。精神的には、現場を思い出したり、遺族の方の顔をおもいだしたりしてつらいこともあったり、何百体のシートもかぶっていないご遺体の間を歩いて目的地に行かないといけないためかなりのストレスがかかった方もおられました。しかし、Dr,Nsの顔をみて、その時の話をして安心したのだというありがたい意見もいただき私が行った意味があったのだと思いうれしく感じました。
現地の津波災害への医療対応は、Vachira Phuket Hospital(公立ワシラ・プーケット病院)副院長のDr. Weerawat Yorsaengrat(ウィーラワット・ヨーセンラット医師)と面談しました。プーケット県にはワシラ病院のほかに3つの公立病院があったが、そのうち、バンダオビーチの公立病院は津波で壊滅的打撃を受け、全く機能していませんでした。残りの二つも小さい病院のため応急処置のみでした。プーケットタウンにはワシラ病院以外に3つの私立病院があり、その中ではバンコクプーケット病院が最大です。そこへもかなりの患者、特に外国人が、搬送されました。発災時に、数名の医師が自発的にパトンビーチへ行き、現場で搬送の指示にあたり、救急車は傷病者が重篤な場合はひとり、軽症の場合は数名をのせ、ビーチと病院を往復しました。タイは災害のない国として成り立っていました。そのため、地震、津波というものがどういうものなのかまったく知らなかったようです。津波が起きたときも、病院へは「すごい洪水がきた」と電話してきたそうです。ワシラ・プーケットは512床の病院で発災から1月10日までの間に計863名の患者が津波被害で病院を受診しました。その内日本は8名でした。6名の患者が死亡し、死因は創感染からの敗血症、誤嚥性肺炎でした。発災3日後にはタイ軍の飛行機でバンコクにも搬送。イタリア、ドイツでも搬送機がプーケットにきて、各国へ直接搬送しました。現在、2名の誤嚥性肺炎の小児をICUで治療している状態です。この患者に対してバンコクから診療団(医師二人、看護師4名)が派遣されており、診療にあたっていました。
プーケットにいる間、日本の遺族ではない方に会うこともありました。何か手伝えることはないかと思ってプーケットに軍手を持ってきて、海岸のガラスの破片などを集めたりしたといっておられました。私は何か熱いものを感じました。
ヘリチームの医療班(帯同)というのは医療チームとは違い被災者に関わることがありませんが、隊員の方々が安全で無事に任務を果たしていけるようサポートをして、隊全体の保健衛生管理が重要であると思い、なくてはならないものであると感じました。また、隊員の方々の惨事ストレスに対するフォローというものが今後も必要になってくると考えさせられました。今回の経験を、これからの災害医療の中に役立てていきたいと思います。

 

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  1. インド地震に関する緊急援助(固定ページ | 2001.9.27)