済生会は、明治天皇が医療によって生活困窮者を救済しようと明治44(1911)年に設立しました。100年以上にわたる活動をふまえ、日本最大の社会福祉法人として全職員約64,000人が40都道府県で医療・保健・福祉活動を展開しています。
済生会は、405施設・437事業を運営し、66,000人が働く、日本最大の社会福祉法人です。全国の施設が連携し、ソーシャルインクルージョンの推進、最新の医療による地域貢献、医療と福祉のシームレスなサービス提供などに取り組んでいます。
主な症状やからだの部位・特徴、キーワード、病名から病気を調べることができます。症状ごとにその原因やメカニズム、関連する病気などを紹介し、それぞれの病気について早期発見のポイント、予防の基礎知識などを専門医が解説します。
全国の済生会では初期臨床研修医・専攻医・常勤医師、看護師、専門職、事務職や看護学生を募集しています。医療・保健・福祉にかかわる幅広い領域において、地域に密着した現場で活躍できます。
一般の方の心身の健康や暮らしの役に立つ情報を発信中。「症状別病気解説」をはじめとして、特集記事や家族で楽しめる動画など、さまざまなコンテンツを展開しています。
今回のスマトラ沖地震を知ったのは、たまたまつけていた車のラジオからでした。はじめは100人程度の負傷者という情報でしたが、その後インターネットで調べていると数千人の規模で死傷者が増え続けていたので、もしかして派遣があるのではないかと思い、いつでも行けるようにこっそり準備はしていました。震災当日の夜9時頃にJICAからメールで派遣要請はあったものの、「翌日の朝9時に成田空港集合」というまさに緊急の招集は、大阪からの交通手段がなく不可能であり断念しました。その後も続々と被害状況が報道され、あまりの被害の甚大さに2次隊の派遣もあるのではないかと思っていました。年が明け、平成17年1月6日にJICAから済生会に2次隊派遣の要請があり、10日から21日まで国際緊急援助隊医療チーム(JDR)の一員として私はインドネシアに行くことになりました。当院から初めての派遣であり私はもとより、病院関係者の方も戸惑ったことが多かったと思います。
そもそも海外での医療活動に参加したいと思ったのが、私が看護師を志した理由のひとつでもありました。約2年前に済生会を通してJDRの募集があることを知り、すぐに応募し研修を受け登録となりました。
今回が初めての派遣だったので、成田空港に着くと急に緊張・期待・不安が強くなりましたが、結団式が終わり日の丸を掲げた隊員用ベストを着用し控え室を出ると、気が引き締まりしっかり頑張ろうという気持ちが高まり、日本を後にしました。
活動サイト
ジャカルタを経由して被災地であるバンダアチェに到着し、直接活動サイトに行きました。活動サイトでは1次隊が震災直後よりサッカー場を借りて診療していましたが、雨期がはじまり地面がぬかるんできたため、患者の動線を考え直し、地面に「すのこ」を敷き医療テントの移動を行いました。
同じ敷地内には韓国の医療チームとインドネシア海兵隊の遺体回収チームが活動していました。韓国チームはJDRと交代で午後より診療を行い、インドネシア海兵隊の遺体回収チームには私たちの警護や受付の整備、活動サイトの夜間の警備を行ってもらっていました。
診療
活動サイトでは物品の位置や現地スタッフも十分把握できていないまま、到着直後より診療に加わりました。外科・内科各2診で診療を行い、外科では外傷後の化膿創や打撲が多く、洗浄・デブリードメント・縫合の処置がほとんどでした。医師2名・看護師2名でベッドは3台使用し、医師が2人診察している間にいつでも次の患者を診察できるように準備し、常に3ベッドが稼動している状態で診療を行っていました。デブリードメントや洗浄では痛みを伴うため、タッチングしたり、通訳の方から教えてもらった片言のアチェ語で声かけをして不安や苦痛の軽減に努めていました。またもともと日常生活では裸足の患者が多く、地面も雨でぬかるんでいたため創傷治癒の遷延化が認められました。せっかく治療を受けても化膿して戻ってくるという患者も多くいたため、下肢の外傷の場合はビニル袋を巻いて帰宅してもらっていました。
内科では呼吸器症状・消化器症状・掻痒感、不眠を訴える人が多く、中には家族も家もすべて津波によってなくなってしまった人が、診療中や受付で胸の内を訴える人もいました。私たちをサポートし、一緒に活動している現地の通訳の方にも同じような境遇の方がいましたが、私にはただ話を聞いてあげることしかできませんでした。しかしその中で身体的・精神的痛みを共有しお互いの助け合う精神や、頑張って生き抜こうとする人の強さを感じました。
熱帯気候の雨期に入った現地はとても蒸し暑く、診療室となっているテント内はさらに過酷な暑さでした。そこで私たちは脱水や熱中症を予防するために、診療室にはペットボトルを必ず置き、少しでも手が空けば水分をとるようにしていました。汗はだらだらとしたたり落ちてきますが、診療中はつい夢中になり水分を摂ることも忘れるため、お互いに「水、飲んでる?」と声を掛け合っていました。私は普段の食事中でもあまり水分はとらないので、かなり無理をしてペットボトルを2本近く診療中は飲んでいましたが、それでも半日以上トイレに行かない時もありました。熱中症にはなっていなかったもののかなりの脱水状態にあったのでしょう。
生活活動サイトから車で20分ぐらい離れたところで一軒家を借り、炊事・洗濯は現地の方を雇いました。朝の5時頃にイスラム教のコーランがあちこちから大音響で鳴り響き、目覚まし時計の代わりとなり一日が始まりました(日によって鳴り出す時間が微妙に違ったのは何か宗教的な理由があるのか、それとも国民性か?)。もちろんクーラーもない部屋で寝ているわけですが、蚊に刺されるのをおそれシーツを頭からかぶって寝るので、朝起きたら簡易ベッドが汗でびっしょりと湿っているという状態でした。食事をとった後、物品を車に載せ7時にはサイトに向けて出発しました。車列を組んで移動しますが、先頭と最後尾にはインドネシア海兵隊員が同乗し万一の際に備え警護してくれました。宿舎前も常に二名の海兵隊員が警護にあたっていました。自動小銃を持つ海兵隊員を見ると、ここは外国なのだと実感しました。診療は14時頃に終わり帰宅すると、ミーティングを行い次の日に備えました。
2次隊メンバーのほとんどは下痢や発熱をきたしてダウンしてしまうという厳しい活動環境でしたが、私は食事もおいしく、体調も崩さず過ごすことができました。
まとめ
私は日々職場で、医療を行う場所・物が十分に確保され守られた環境にいたことを痛感しました。被災地では今あるものの中で応用を利かせた働きが重要になります。十分な医療環境でなくとも現状の中で、もっとも適切な医療を提供していくことが大切だと感じました。
今回の経験は私にとって何ひとつ無駄なことはなく、貴重な経験とかけがえのない人間関係を得ることができたと感じています。
そしてバンダアチェの方々の復興を心から祈っています。