済生会は、明治天皇が医療によって生活困窮者を救済しようと明治44(1911)年に設立しました。100年以上にわたる活動をふまえ、日本最大の社会福祉法人として全職員約64,000人が40都道府県で医療・保健・福祉活動を展開しています。
済生会は、405施設・437事業を運営し、66,000人が働く、日本最大の社会福祉法人です。全国の施設が連携し、ソーシャルインクルージョンの推進、最新の医療による地域貢献、医療と福祉のシームレスなサービス提供などに取り組んでいます。
主な症状やからだの部位・特徴、キーワード、病名から病気を調べることができます。症状ごとにその原因やメカニズム、関連する病気などを紹介し、それぞれの病気について早期発見のポイント、予防の基礎知識などを専門医が解説します。
全国の済生会では初期臨床研修医・専攻医・常勤医師、看護師、専門職、事務職や看護学生を募集しています。医療・保健・福祉にかかわる幅広い領域において、地域に密着した現場で活躍できます。
一般の方の心身の健康や暮らしの役に立つ情報を発信中。「症状別病気解説」をはじめとして、特集記事や家族で楽しめる動画など、さまざまなコンテンツを展開しています。
インドネシア・スマトラ島沖地震による津波は平成16年12月26日に起こり、未曾有の大災害となった。私も10年前の阪神大震災の医療活動で、岡山病院が二十数次隊を派遣した時に参加した経験もあり、また、病院が国際緊急援助隊の登録者を募集したこともあり登録した。登録後災害の報道に接するたび、何か役に立てれることがあれば参加したいとの気持ちがあり、今回もそうであった。
こうした中、1月6日(木)済生会本部経由で、独立行政法人国際協力機構(JICA)より国際緊急援助隊医療チーム(JMTDR医療チーム)登録者に派遣協力要請があった。施設、支部の積極的な支援を得て、受諾の旨済生会本部に報告した。本部、事業部小川次長より「派遣先はインドネシア、期間は1月10日(月)~21日(金)まで。10日9時30分成田空港第2ターミナルに集合せよ」との連絡を受ける。
10日(月)成田空港特別待合室にて結団式が行われる。JMTDR医療チーム支援委員会山本委員長より「本隊の本領を十分に発揮すると共に、全員無事に帰国して下さい」との言葉を頂く。この時の「全員無事に帰国」の言葉が、通り一遍の挨拶の言葉で終わらなかったことは、現時点では誰も予想していなかった。成田発11時25分、ジャカルタ着現地時間17時05分(日本時間19時05分・時差2時間)の約8時間の行程である。機内で出発時に貰った資料に目を通す。日程・災害状況・インドネシア概況・安全対策・携行機材・医療事情など、現地での活動、身の安全等の情報を得る。
ジャカルタのスカルノハッタ国際空港には、JICAインドネシア事務所の方の出迎えがあり、バスにて今夜宿泊のホテルに到着。車寄せまでの進入路には、コンクリートブロックの障害物が数個置かれており、それを避けながらジグザグで進み、金属探知機が設置されている玄関に到着する。ここは平和な日本ではないことを実感する。明日は5時ホテルチェックアウトのため、夕食を取りながら大使館、JICA事務所の方達との打ち合わせを行う。
インドネシアは、面積は日本の約5倍、人口約2.15億人、人種は27種族に大別されその大半がマレー系、宗教はイスラム教約87%、キリスト教10%、ヒンズー教2%である。今回の活動場所であるアチェ州(州都バンダアチェ)はスマトラ島の北端に位置し、天然資源に恵まれている。7世紀にスマトラ島を中心に仏教王国が成立し、13世紀にアチェ地方にイルラム教が伝来する。17世紀オランダの植民地となり、1945年独立する。
1970年代半ばよりインドネシアからの分離独立を求める武装グルーブ「独立アチェ運動」(GAM)と、インドネシア国軍との間で抗争状態にあった。津波以降は人道支援のため双方停戦に合意し、現在は守られている。イスラム教はジャワ島では緩やかで飲酒もできるが、アチェは厳しく飲酒はできない。
バンダアチェでは自転車は殆ど走っておらず、バイクが非常に多い。バックミラーが付いているバイクは1割程で、後方確認などせず車線変更してくる。ナンバープレートのないバイクもある。聞くと日本のような車検制度や強制保険制度はないそうで、ジャカルタなどでは個人が任意で損害保険に入っているそうだ。アチェ州にはそうした保険も障害保険もない。危険地域なので保険会社が保険をしていないそうで、我々には戦争保険を掛けているとのことであった。
入国2日目・11日(火)7:00 チャーター便にて、途中でプカンバル空港で給油し、アチェ州の州都バンダアチェへ向かう。 11:40、被災地上空に達し、旋回飛行し災害の状況を視察する。空港で診療器材を受け取り、診療サイトのあるサッカー場に直行する。
診療器材は一次隊が設営したテントに収納し、二次隊での使い勝手も考えてテントの位置も多少移動させた。一次隊が撤収する3日ほど前より午後になるとスコールが降り出し、地面は田んぼ状態で黒色の泥水でぬかるみ状態になっており、一次隊が購入した「すのこ」を敷く。すのこの数に限りがあるため、ダンボール等水に濡れては困るものを優先的に置き、明日からの診療に備える。牛の糞があちらこちらに落ちており、異臭が漂っている。活動はこの日に限らず、スコールが来る前に終わらせなければならない。全員長靴を履き作業に当たる。私は足が蒸れるのが嫌いで、冬でもサンダルを履くことが多い。サンダルを持参してきたが、初日より赤道直下での長靴生活となる。
宿舎で使用する物資、主には食料と寝具関係は、この近くの一次隊の宿舎に残る生活物資と共に宿舎に運び込む。全員で活動したのは、撤収するまでの10日間の中でこの一日のみであった。
12日(水)(入国3日目)本日より二次隊の診療初日となる。昼過ぎよりスコールが降るため、また、隊員の体力を考えると、診療は午前中とならざるを得ない。このため診療は7時30分開始とし、それまでに朝食を済ませ、持っていく物資を車に積み込み出発する。不測の事態による診療への影響を最小限に止めるため、同じ車にはそれぞれ担当の異なった者同士が乗る。診療サイトと宿舎を含む移動には、車5台で隊列を組み、先頭と最後尾の車両にインドネシア海兵隊が銃を持って同乗。全車両に無線機を配備し連絡を取り合いながら移動する。診療サイトには約20分位で着く。前日の雨でテントはずぶ濡れ、地面は水浸しになっており、所々に牛の糞が落ちている。そこを歩くるものだから糞まじりの泥水になり、何とも言えない匂いがしている。テントの裾にも泥水が付いている。診療用のゴム手袋を着けテント作業に当たる。テントの壁を日除け用にするためポールとロープで張るが、これも既に泥まみれで白いロープなどない。
ここはサッカー場ということから日陰がほとんどない。待合用にタープやシートなどで日陰を作ることにするが、診療用の家型テントと違い家型をした支柱がない。一本物のポールとロープだけで天幕のように張る。診療が終わるたびに畳んでテントに収納する。地面で畳むため泥だらけになっているが、無いよりはましである。地面にはブルーシートを敷く。こちらは地面に敷くだけあって、かなり泥だらけ。泥が比較的乾燥している面を上にするが、とても座れたものでは無い。
診療テントは盗難防止、また防犯上道路より30mほど引いて建てられている。また、海兵隊より、活動サイトを明確にするために、境界線を示すものを作ったほうが良いとの指示を受け、一次隊が棒切れにビニールの荷紐で境界線を作っている。サイト内は全て板で作った木道を渡ることになる。泥水の深い所は、枕木を置きその上に板を渡す。初めは泥水の上にある板も、何人も渡っているうちに枕木が沈み、板も泥水の下になる。板の上を歩いてはいるものの、足は泥水に浸かる。度々枕木の位置を変え、板を泥水から出す。板は幅30~40・程なので松葉杖の人は、杖は泥の中に突くことになり、杖の長さと身長が合わなくなり歩きづらい。また、泥水に浸かるため板の上には粘土状の泥が付き、滑りやすくなっており、待合テントに行く途中に転倒した人もいた。幸い足の傷は泥水に浸からなかった。
診療テントは一体式になったグランドシートが付いており、地面からの浸水は防げるが、泥だらけの足で入って来るものだからかなり汚れている。足の傷の場合、治療が終わり帰るときは、ビニール袋を履いて帰る。雨は恵みであり、地面に溜まった水も然り。しかし、時として弱者に辛い仕打ちをすることもある。
靴を履いた人、ゴム草履を履いた人、裸足の人も少なくない。着の身着のままで避難している。ある時、私が宿舎でコンクリートの上で裸足になって長靴を洗っていると、「破傷風になったらどうする」と注意されたことがあった。ここの人達はその何百倍、何千倍もの危険の中で今も暮らしている。
津波直後は外傷患者が多かったが、日が立つにつれ内科系疾患が増加し、下痢、呼吸器感染症の患者が多くなった。また、治療中の外傷患者で、傷の切開排膿、再縫合が必要な人もいる。まだまだ医療活動が必要な状況が続く。
こうした中にも、明るい話もある。警備担当2名のインドネシア海兵隊が診療サイトの警備の傍ら、診察の順番券の配付回収も行ってくれる。また、診療サイトに掲げられている国旗は、当初テントに張りつけていたそうだが、今は3~4mの一本物の竿に掲げられている。材質や大きさからして日本から持ってきた物ではない。患者の父親が診療への感謝として、竹竿を持ってきて立ててくれたそうだ。
宿舎は一次隊が探したもので、JICAが行う日本での研修に参加した現地の人が紹介してくれたのもである。家族5人のところに約30人程が下宿する事になったが、家は広く全く支障はない。朝晩の食事を作ってくれるし、洗濯もしてくれる。料理は石で挽いた自家製のウコンで味付けしてあり、朝からピラフのこともある。最初は美味しく頂いていたが、毎朝晩ウコン味では飽きてくる。ある日、夕食に日本のレトルトカレーが出た。実に美味しい。日本の味だ。この時思った。日本で食べるインドカレーもジャワカレーもあれはみんな日本カレーだ。
こちらでは、風呂を沸かすことはないらしい。水槽に水が張ってあり桶で体に掛ける。試しに膝から下に掛けてみたが、ヒヤーとしてとても体には掛けられそうにない。足や腕などに掛けるが思わず「ウー」と声が出る。入浴が行となった瞬間である。活動を終え火照った体には些か刺激が強すぎる。体には手を濡らして塗る。濡らしては塗り濡らしては塗りしていると、次第に体が慣れてきて、何とか体に掛けられる状態になる。それでもザブザブとはいかない。頭を濯いだ水が体に流れてくる.これで入浴は終わり。滞在中一度も体を洗おうとは思わなかった。 地図で見るとここは赤道直下、北緯4度位に位置している。とは言っても、太陽は常に真上に居るわけではない。朝は斜めから照っている。このためテントの中にも日差しが入って来る。湿度が50%位なので空気はカラッとしている。日本の秋か冬のように空気が澄んでいて、遠くが霞んで見えることはない。ハンカチを持っていったが、これを使ったことはない。汗は流れる前に乾いていく。体から水分が抜けていく感じはしない。気をつけないと、意識しないうちに脱水になる。隊員の健康管理担当の看護師が、人を見るたびに、「水を飲んでますか」と声を掛ける。それでも脱水になる者もいる。1.5・のペットボトルを常に持ち歩く。日が当たっているために、ボトルの内側には気泡が一面に付いている。生ぬるい水だがここでは贅沢は言っていられない。しかし、私には幸いした。冷たい水を短時間に大量に飲むと、胃を悪くしてしまう。生温かったので大量に飲むことがだきた。喉が乾かなくても飲む。とにかく飲む。私は飲む前にボトルの水面の位置を確認して、ここまで飲むぞと決めて飲む。先ずベルトを緩めてズボン下げる。水を飲み腹が膨れてくると、ベルトの上に腹が乗り掛かった様になる。一本飲み終えたので取りに行くと、男性が点滴を受けている。聞くと、水分の摂り方が少なく脱水症になったとのこと。インドネシアで診療を開始して3時間程のことである。13日(木)(活動2日目)女性が脱水で点滴。男性の一人が下痢。14日(金)(活動3日目)更に別の男性が診療サイトで脱水で点滴、宿舎で女性が下痢で点滴。点滴はしていない人でも、薬は飲んでいるとのこと。このころまでは「○○さん脱水」「○○さん下痢」と記録していたが、あまり多くなりすぎて特別なことでなくなり、記録を取るのを止めた。この夜のミーティングで、明日から担当ごとにローテーションを組んで、一日づつ休養を取ることになった。私は心の中で「この軟弱者」と思っていた。
医療調整員は私を含めて3人。16(日)(活動5日目)本日は福見が休養日だが、下痢となり療養日となる。「この軟弱者」の仲間入りとなる。調整員の3人も下痢になったが、全員が同じ日でないのが幸いであった。以後、撤退の20日(木)(活動9日目)の朝まで、点滴隊員が続く事になった。聞くと脱水にも下痢にもならなかった人もいる。当初「我々はこんな凄い所に来たんだ」と思っていたが、その人を見ながら「我々はこんな凄い人と来たんだ」と認識を新たにした。
我々は警備担当の海兵隊に守られている。彼らは24時間我々と行動を共にしている。宿舎と診療サイトとの移動中、診療中、宿舎で休憩しているときもである。彼らも同じ民家で食事をし、睡眠もとる。我々は夜食後にミーティングを食堂で行っている。その横で、海兵隊は自動小銃を肩に掛けたまま食事をする。夜はその食堂にシートを敷いて、自動小銃を側に置いて眠る。日本では、映像かせいぜいホルダーに入った警官の拳銃を見る程度なので、経験したことのない光景である。我々は危険地域の真っ只中に居るのだ。
診療の終わった午後、市内の視察する事になった。5台の車で一度に行くと目立ち危険とのことで、3日に別けて行く。勿論、海兵隊も同行してくれる。バンダアチェの被災状況は、壊滅的打撃を受けたのは、津波が襲った沿岸部から市街地向かっての5┥位である。ここでは泥まみれの瓦礫の大平原が見渡すかぎり続いている。どこに道路が付いていたのか全く判らない。小山の様になったところは殆ど無い。あたかも人為的に平らにした様である。幹線道路の瓦礫や遺体は処理されて、きれいな状態になっているが、それでも視察中に、所々に遺体を包んだ黒いビニール袋が5~6体並べられていたり、警官や海兵隊がトラックに積み込んでいる光景を目にしたこともある。まだ手つかず所では瓦篠の下にはかなりの数の遺体が残されているのではないかと思われる
一方、市街地の山側半分は津波の影響を殆ど受けておらず、平常通りの雰囲気で、野菜や肉を売る小店、日本で言う「海の家」のような店が道路沿いに数多く並んでおり、そこでくつろいでいる。
19日(水)(活動8日目)三次隊による診療サイトの視察がある。飛行機の遅れで到着が遅れている。この間に一人の男性が駆け込んできて、車のなかに動けない者が居るので診察をしてくれと言う。皆で担いでテントに運ぶ。診察の結果、脳梗塞と診断され医師が同行して、近くの病院に搬送した。この人が最後の患者となった。飛行機が遅れなかったらこの人はどうなったのだろうと考えると、津波で無くなるのも運命なら、飛行機の遅れで助かるのも運命である。
20日(木)(活動9日目)三次隊に活動を引き継ぎ我々は帰路につく。三次隊の方に「我々は明日早朝サイトに出発しますが、あなた方はゆっくりして下さい」と言われたが、翌朝起きてみると二次隊全員が起きていた。一緒に朝食をすませ玄関で見送った。何とも言えない解放感に包まれた。活動が辛いとか、嫌だとか思ったことは一度もない。しかし、あの時、玄関で感じた解放感はいったい何だったんだろう。
22:00(日本時間21日 0:00 )ジャカルタ発、21日(金) 7:00 成田空港到着。待合室にて解団式が行われる。
あっと言う間の12日間であった。厳しい環境下で耐えた12日間でもあった。皆のチームワークで乗り切った12日間でもあった.今となっては懐かしく思い出される12日間である。
今回私にとって貴重な体験であった。災害の無いことを祈っているが、万一起こり再び派遣要請があれば是非参加したい。