社会福祉法人 恩賜財団 済生会(しゃかいふくしほうじん おんしざいだん さいせいかい)社会福祉法人 恩賜財団 済生会(しゃかいふくしほうじん おんしざいだん さいせいかい)

エルサルバドル地震に関する緊急援助

「エルサルバドル地震災害救急国際緊急援助隊医療チーム」に参加して

福岡県済生会八幡総合病院 看護婦 松尾 福美

中米エルサルバドルで平成13(2001)年1月14日(日)午前2時35分(現地時間1月13日午前2時35分)マグニチュード7.9の強い地震が発生した。
700人が死亡し、50万人が被災した。
先方政府の要請を受けて日本政府が国際協力事業団(JICA)の緊急援助隊医療チームを派遣した。
私は1月16日から1月28日までの13日間同隊のナースとして参加したので報告します。


後列左から3番目が筆者。 後ろのJDRの看板を表示したテントが日本チームが設営、活動した診療所

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1月15日の北九州市は朝から珍しく雪が降り寒い静かな1日であった。
昼のニュースで遠い国での悲惨な地震の模様が写し出されていた。
仮登録した国際緊急医療援助隊(JMTDR:Japan Medical Team for Disaster Relief)のことが頭をよぎった。
終業時間も間もない17時頃「看護部長室に行くように」と連絡があった。
不安に駆られながら行くと登録したもう1人のナースもやってきた。
看護部長がエルサルバドルの地図を開いて派遣の説明をしていた。
「行きたい!でも役に立つかな?職場は?」即答を迷っていると、所属婦長より「あなたが行ってきなさい。あとは何とかするわよ」の言葉に迷いが消え「私が行きます」と答え、派遣の話が進んだ。


エルサルバドル

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今回の医療チームは18名で構成され、1月15日夕に医師、ナースほか計7名の先発隊が成田空港を発った。
後発隊は医師1名、ナース4名、援助計画員1名、医療調整員3名、業務調整員2名の計11名が1月16日夕に出発することになった。

エルサルバドル地震 災害救済緊急援助隊医療チーム

第1次(先発)隊 団長1名、医師2名、ナース2名、業務調整員2名 計7名 1月15日出発
第2次(後発)隊 援助計画員1名、医師1名、ナース4名、医療調整員3名、業務調整員2名 計11名 1月16日出発

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1月16日朝、心配した雪もさほど積もらず定刻に福岡空港を発つことができた。
初めて成田空港で顔を合わせたメンバーと挨拶を交わした。
配られたジャケットに袖を通すと、背中の日の丸がずっしりと重く緊張感が増した。
結団式を終えて17時15分全日空機でロサンゼルスへ飛び立った。
ここでチャーター機に乗り換えて5時間、エルサルバドル空軍基地に着陸した。
入国手続きを終えて宿泊するサンサルバドルのホテルに着いたのは日本を発って約20時間後である。
壁の崩落でフロントや客室の一部が使えない。
現地時間は21時であったが、エレベーターも使えないホテルでは従業員が慌ただしく動いていた。
チェックイン前に在エルサルバドル日本国大使より、被災状況や明日からの活動について説明がなされた。
死者3名、負傷者330名、損壊家屋2,020戸、外国の医療チームが入っていないサンティアゴ・デ・マリアに活動拠点が決定した。
青年海外協力隊員がチームに加わり、事務的なことや通訳をしてくれることになった。

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エルサルバドルは中米のなかで最も小さな国で、21,040平方キロメートル(九州の約1/2)の面積であり、人口は590万人である。首都はサンサルバドルでスペイン語を言語とする農業国である。

エルサルバドルについて

面積 21,040平方キロメートル(九州の約1/2)
人口 590万人
首府 サンサルバドル
言語 スペイン語
宗教 カトリック
通貨 コロン、1コロン=約14円(2001年1月1日から米ドルとなる)
主要産業 農業(コーヒー、砂糖)
温度 20~30℃
政府 共和制、1979~1992年内戦

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○第1日目(現地1月17日)
9時マイクロバスでサンサルバドルを出発、途中地滑りや道路に亀裂があるが大きな被害はみられない。 約3時間で標高800mのサンティアゴ・デ・マリア市に入ると、道路脇に瓦礫の山、壁の崩落、全壊した家、軒下で生活している人の姿が見えた。 初めて目にする震災現場に言葉を失ってしまった。

損壊した家屋
損壊した家屋

先発隊と合流して午後から本格的に診療を開始し、128名の診療を行った。 17時、車で50分の所にある今日から宿泊するサンミゲルのホテルに向かった。 1979年から1992年まで内戦があったエルサルバドルは現在でも山賊がいるという。 明るいうちに移動し、すべての活動や移動に現地の警察官が同行して身の安全を確保してくれた。 毎夜、診療状況とその問題点、他国の活動、明日の予定など1~2時間くらいミーティングに当てた。 市の災害対策本部から第2サイトの要請があり、調査をすることになった。

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○第2日目(現地1月18日)
5時に起床、病院につくと診察を希望する住民の列ができていた。 多くは路上生活をしいられているため腰痛や風邪症状を訴え薬を希望した。 また食べ物がないからビタミン剤を要求した。 脱水症の小児に点滴を依頼したり、受付に協力してもらうなど国立病院のナースと連携をとった。 あまりに患者が多いので整理券を配り人数制限をしたが、15時までに192名を診療した。

第1サイト、サンティアゴ・デ・マリアでの診察

その後、車で10分のところにあるサンタ・ヘマへ調査に出かけ、学校の校庭に第2サイトを設営することにした。

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○第3日目(現地1月19日)
日本の医療チームが来ていると聞いて、3時間かけて歩いてきた76歳の女性がいた。 血圧測定、問診だけで感激してくれる人、感謝の意を伝えるためだけに列に並んで順番を待つ人もいた。

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○第4日目(現地1月20日)
2診療体制をとり私は第2サイトの担当になり、サンタ・ヘマへ移動した。 第2サイトは第1サイトより規模が小さく、医師1名、ナース2名、薬剤師1名、青年海外協力隊員6名、通訳1名、業務調整員の構成である。 午前中だけの診療で重傷者は第1サイトへ転送することにした。


第2サイト、サンタ・ヘマでの活動(問診)

内科的疾患の患者が多く外傷者はほとんどいない。 震災によるショックで精神的ケアも必要とされた。 この地区は貧困層で子どもが多い。 子どもは素足で手足が真っ黒で、洋服も汚れている。 翌日ポリ容器と水を持って、手洗いの指導をすることにした。


第2サイト、サンタ・ヘマでは子どもに手洗いを指導

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○第5日目(現地1月21日)
ミサがあったので並んでいる患者が少なかったが、時間とともに増えてきた。 配給物資が届いたらしくセーターを着用して喜んでくる人がいる。 午後は全隊員の健康維持のために休養に当てられた。

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○第6日目(現地1月22日)
復興の兆しが見え始め、住民は瓦礫を片付けたり、家の修理をしていた。 患者数も少なくなってきた。 風邪、中耳炎や寄生虫の患者が目立った。

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○第7日目(現地1月23日)
コーヒーの収穫が始まったため患者が少ない。 飴ほしさに「頭が痛い」と子どもが来たり、ビタミン剤を持って帰らないと母親から怒られる子どもがやってきた。 午後から近くの病院、保健所、サンティアゴ・デ・マリアの避難民センターの視察に出かけた。 避難所ではテント20張に約400名の避難民がいるという。 なかに120名の患者が診て欲しいというが、訪問診療をしないので病院へ来るよう説明する。 避難所を出ると、通りにはホンデュラスから食料の配給車に人々が群がっていた。

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○第8日目(現地1月24日)
第2サイトは本日までである。 午前中の診察を終え、撤収作業を済ませて、第2サイトグループが戻ってきた。 避難所から所長に引率されて50名の患者が来た。 水が不足しているため皮膚病の患者が増えてきた。

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○第9日目(現地1月25日)
最終日を迎えた。 並んでいる患者は少なかった。 10時30分に診察を終え撤収作業を済ませた。 医療機材は病院へ、生活機材は市へ、テントは学校へ寄贈することとなり、それぞれの長を招いて贈呈式を行った。 サンティアゴ・デ・マリア市をあとにサンサルバドルへ向かった。

診療実績 – 患者数(名)

  第1サイト 第2サイト 合計
新患 再診 新患 再診
1月17日 128       128
1月18日 192       192
1月19日 167 3     170
1月20日 156 4 61   221
1月21日 86 7 54   147
1月22日 99 11 75   185
1月23日 136 11 49 6 202
1月24日 176 12 36 8 232
1月25日 78 12     90
総計 1,218 60 275 14 1,567

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こうして、9日間の診療活動が無事終了した。 最初は全く言葉が理解できなかった。 いつの間にか自然と挨拶ができるようになり、患者の訴えも何となく解るようになった。 私たちが到着したとき不思議そうに見ていた人たちも手を振ってくれるようになった。 感謝の言葉に感無量となり流れそうになる涙をぐっとこらえた。 成田空港で感じたジャケットの重さは、いつしか感じなくなっていた。 この地震で多くの人が被災し、救援物資の不足、水道設備がないなど、医療だけでは対処できない問題に直面した。 物をねだられたとき「なぜ?」と思ったが、もし、自分が被災者の立場であれば同じことをするだろう。 また、医療器具も限られ、未経験の処置もあり戸惑うこともあった。 しかし、最後まで活動することができ充実感を味わいながら、エルサルバドルを後にして帰路についた。

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今回の派遣にあたり、あたたかく送り出してくださった院長、事務長、看護部長、所属婦長はじめ病院の方たち、済生会本部の方々に心より感謝いたします。

 

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