第151回 幽霊を見たことがあるか
今年は残暑が厳しいから、今の時期に幽霊話を書いても許されるだろう。
福井県に出向して自然保護課長の仕事をしていた時の話である。最大の仕事は、全国的に知られた観光地、東尋坊(とうじんぼう)の景観復元事業だった。
東尋坊は、荒れ狂う日本海に張り出した断崖絶壁(だんがいぜっぺき)の柱状節理の景観で知られる。恐る恐る崖から下を見下ろすと、足がすくんでしまう。
観光客は、絶壁を目指して歩くので、土産屋や飲食店はどんどん海にせり出して建てられていった。ついにはせっかくの自然景観に損傷を与える事態になった。
私のミッションは、これらの店舗を後方に移転させ、自然の状態の岩地や草地を復活させることだった。交渉は、この類の仕事のベテランであるT課長補佐と若いN君が専属で当たった。私は月に1回程度出向いた。
対象の店舗は、繁盛していたので、交渉は難航し、夜遅くなった。ある日、Tさんが「東尋坊では、幽霊がよく出るんですよ」とまじめそうに言った。「まさか」と答えると、Nさんも「よく聞きますね」と口を合わせた。Tさんは、タクシー運転手が体験したという幽霊話を披露した。
ある夜、タクシーが東尋坊の脇を走る道で女性客を乗せた。目的地に到着し、運転手が後ろを見ると、客は消えた。座席はびっしょりと濡れていたという。「東尋坊で身投げをした女性が、自宅に帰りたかったのでしょう」とTさんは、納得したように話した。
福井市への帰路、その場所で車から降りた。夜のとばりがすっかり下り、周りは樹木に囲まれていたので、一層暗く、静まり返っていた。日中は大変暑かったが、日本海から涼しい風が吹いてきた。風の音はなぜか人の嘆き声に聞こえてきた。
幽霊が現れても不思議ではない。10分ほど立っていたが、何もなかった。本当に幽霊が出てきたならば、私はどうしただろうか。
暑い夏の夕方になると、東尋坊での一夜を思い出すことがある。
すみたに・しげる
1946年富山県高岡市生まれ。69年東京大学法学部卒業、厚生省に入る。自治省、総務庁、在英日本大使館、厚生省社会・援護局長などを経て2003年環境事務次官に就任。08年5月から済生会理事長。現在、日本障害者リハビリテーション協会会長、富山国際大学客員教授なども務めている。著書に「環境福祉学の理論と実践」(編著)「社会福祉の原理と課題」など多数。