済生春秋 saiseishunju
2026.04.14

第158回 一期一会の精神

 昭和59年秋から交換した名刺を保管している。これらをファイルに収めて整理しているが、ファイルは、100冊を超えてきたので、名刺の一部は、段ボールにしまい込んだ。名刺の数は、5万枚は超えただろうか。
 アプリで整理する方が効率的だが、交換した日、用件、出身地などをメモした実物の名刺を見る方が、私にはその人の記憶がはっきりと蘇る。

 名刺を交換した人の半数以上は、一度限りの出会いで終わった。名刺ファイルを眺めても、どんな人だったか思い出せない人もいるが、たった一度だけれども、印象深く記憶に残る人も少なくない。こんな人が私を成長させてくれた。
 例を挙げれば、若いころ出張して会った福岡県の町長だったT氏がいる。この町は、今は合併して町名は消えているが、農林業が主な産業で人口流出が激しく町の将来が心配された。しかし、T町長は、明確なビジョンを示し、町政の方向に自信を持って明るく語ってくれた。政治家のあり方を学んだように思えた。

 今は人に会ったとき「これが最後の機会だ」と思って誠意を持って会うことにしている。茶道でいう一期一会の精神である。これを胸に置いて会うと、出会いの意味が違ってくる。

 これは人だけでない。旅でどこかの土地を訪れたときも同様だ。
 昨年冬に大分県臼杵市を訪れた。臼杵港から愛媛県の八幡浜港に渡るために臼杵市内に前泊した。
 臼杵市は、平成6年に出張で訪れて以来2度目であるが、ほとんど記憶に残っていない。目的の施設を視察するだけで、臼杵市のことを知りたいという意欲はなかった。
 今回の臼杵市訪問は、私にとって最後だと思うと、町の隅々を歩きまわりたくなった。長い歴史を有する魅力的な城下町であることが、方々に残る史跡等で分かる。この都市が今後どのように発展するのか考えながら歩いた。

 何事もこれが最後だという気持ちで臨むと、得られるものは桁違いに多いものだ。

炭谷 茂

すみたに・しげる

1946年富山県高岡市生まれ。69年東京大学法学部卒業、厚生省に入る。自治省、総務庁、在英日本大使館、厚生省社会・援護局長などを経て2003年環境事務次官に就任。08年5月から済生会理事長。現在、日本障害者リハビリテーション協会会長、富山国際大学客員教授なども務めている。著書に「環境福祉学の理論と実践」(編著)「社会福祉の原理と課題」など多数。

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