社会福祉法人 恩賜財団 済生会(しゃかいふくしほうじん おんしざいだん さいせいかい)社会福祉法人 恩賜財団 済生会(しゃかいふくしほうじん おんしざいだん さいせいかい)

済生春秋 saiseishunju
2025.02.10

第144回 誕生日の情景

 ある日の夕方、美しい花が届いた。長く交流のある在日コリアンの友人からだ。「明日は誕生日だったのか」と気づく。
 妻は、尾頭付きの鯛の塩焼きと赤飯で祝ってくれた。安月給の時は、ぜいたくはできなかったが、結婚以来ずっとお祝いをしてくれた。
 
 富山県高岡市で昭和40年まで過ごした。そのころ誕生日のお祝いをした記憶はない。「おまえの家は、貧乏人の子沢山だったからだ」と言われそうだが、当時は子どもの誕生日会の類は、大半の家庭でされなかった。
 小学校のクラスの中で父が大会社の重役の女の子がいた。継ぎはぎだらけの服を着ていた私と違い、いつも上品な服装をしてひとり際立っていた。
 ある日その子が「誕生日会を開くので来て」とお気に入りの数人の同級生に声をかけていた。私は対象外だったが、「誕生日は、お祝いするものなのか」と初めて知った。

 誕生日を祝うという習慣は、歴史的に日本文化にはなかった。戦後海外の影響で一般家庭に普及をするようになった。高度成長による核家族化の進行が、普及の大きな力になったというのは私の見方だ。夫婦で子どもの成長をささやかに祝うということは、自然の情だ。

 イギリスで暮らしていたころ、毎年、現地の公立小学校に在籍していた子どもの誕生日会を自宅で催した。すべての同級生に保護者同伴での招待状を出した。当時日本人は珍しく、日本に対する興味もあったのだろう。社交好きのイギリス人は、ほとんど参加してくれた。
 妻は日本料理を用意した。子ども向けの手品を行なうプロのエンターテイナーも呼んだ。子どもも大人にとっても楽しい一日だった。
 誕生日会が人のつながりを作る一つの方法だった。

 若いころは誕生日を迎えると、将来の夢を描いた。しかし、年を重ねると、これまでの来し方を思うようになった。
 楽で楽しかったことはほんのわずか、悩み苦しんだことの方が圧倒的に多かった。よく耐え、頑張れたと思う。こんな感慨にふけるのが、最近の私の誕生日の心の情景だ。

炭谷 茂

すみたに・しげる

1946年富山県高岡市生まれ。69年東京大学法学部卒業、厚生省に入る。自治省、総務庁、在英日本大使館、厚生省社会・援護局長などを経て2003年環境事務次官に就任。08年5月から済生会理事長。現在、日本障害者リハビリテーション協会会長、富山国際大学客員教授なども務めている。著書に「環境福祉学の理論と実践」(編著)「社会福祉の原理と課題」など多数。

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