済生会は、明治天皇が医療によって生活困窮者を救済しようと明治44(1911)年に設立しました。100年以上にわたる活動をふまえ、日本最大の社会福祉法人として全職員約64,000人が40都道府県で医療・保健・福祉活動を展開しています。
済生会は、405施設・437事業を運営し、66,000人が働く、日本最大の社会福祉法人です。全国の施設が連携し、ソーシャルインクルージョンの推進、最新の医療による地域貢献、医療と福祉のシームレスなサービス提供などに取り組んでいます。
主な症状やからだの部位・特徴、キーワード、病名から病気を調べることができます。症状ごとにその原因やメカニズム、関連する病気などを紹介し、それぞれの病気について早期発見のポイント、予防の基礎知識などを専門医が解説します。
全国の済生会では初期臨床研修医・専攻医・常勤医師、看護師、専門職、事務職や看護学生を募集しています。医療・保健・福祉にかかわる幅広い領域において、地域に密着した現場で活躍できます。
一般の方の心身の健康や暮らしの役に立つ情報を発信中。「症状別病気解説」をはじめとして、特集記事や家族で楽しめる動画など、さまざまなコンテンツを展開しています。
この季節は、引っ越しが多い。この町でどんな人生を送ったのだろうか。
数えてみると、これまで12回引っ越した。生涯93回の引っ越しをした葛飾北斎に比べると、ものの数でない。
でも、それぞれに忘れがたい思い出がある。引っ越しの理由は、大学入学、就職、結婚、地方勤務、海外勤務、退職などである。引っ越しは、人生の区切りとなった。
30代の若いころ福井県庁に出向し、職員住宅で3年間過ごした。出向前の旧厚生省では深夜までの残業の連続だったが、県庁では残業はまれだった。
猪突猛進の若い時期だったから、挑戦的に仕事をした。原発アセスメント、東尋坊地区の店舗移転交渉、県立高校の新設など地方行政ならではの仕事は、楽しかった。
日曜日は、幼稚園児だった子どもを自転車に乗せて、市内の小高い足羽山に連れていった。頂上に小動物園があったので、子どもは喜んだ。遠距離にある朝倉遺跡にも行った。田んぼに囲まれ、のどかな中に中世の雰囲気が漂っていた。マムシと頻繁に遭遇したのも、田舎でないとできない経験だった。
公私とも充実しきった3年間だった。福井県を離れるときは、「こんな満ち足りた生活は、二度とできないなあ」と思うと寂しかった。
一番長く住んだのは、国家公務員を退職するまで住んだ国家公務員住宅だった。風呂では蛇口からお湯が出ず、洗濯機を置く場所もない。古く狭い集合住宅だったが、日当たりがよく不満はなかった。
時々夜間に新聞記者が取材に訪れたが、「次官がこんなところに住んでいるのですか」と驚いて口にする人もいた。
「起きて半畳、寝て一畳」でよかった。
ここに住んだのは、22年間に及んだ。旧厚生省や環境省の幹部として苦労したけれど、十分に仕事をさせてもらい、思い残すことは何もなかった。
引っ越しをするとき廃棄した家具などは、戸外の廃棄物置き場にうず高く積まれた。荷物を運び出し、何もなくなった部屋を見ると、ここで過ごした22年間が、走馬灯のように浮かんできた。病気、事故、事件など悲しかったこと、苦悩したこと、悲嘆にくれたことが、あり余るほどあった。
それでも静寂な空間からは家族の楽しい団欒(だんらん)の声が、聞こえてくるようだった。
1946年富山県高岡市生まれ。69年東京大学法学部卒業、厚生省に入る。自治省、総務庁、在英日本大使館、厚生省社会・援護局長などを経て2003年環境事務次官に就任。08年5月から済生会理事長。現在、日本障害者リハビリテーション協会会長、富山国際大学客員教授なども務めている。著書に「環境福祉学の理論と実践」(編著)「社会福祉の原理と課題」など多数。