社会福祉法人 恩賜財団 済生会(しゃかいふくしほうじん おんしざいだん さいせいかい)社会福祉法人 恩賜財団 済生会(しゃかいふくしほうじん おんしざいだん さいせいかい)

済生春秋 saiseishunju
2015.05.08

第28回 経験の重さ

 5月の連休は、外出する用事がなく、自宅でのんびりと過ごした。締め切りまでには十分に余裕のある論文の執筆を終え、後は読書と長距離のウォーキングに費やした。
 最近は、これまでに読んだ本を再読することが多い。繰り返して読むことによって知識が再確認される。新しい気づきもある。

 江戸の儒学者、佐藤一斎の「言志四録」(講談社学術文庫)は、30代に購入した本だ。以前に読んだ時は、一斎が主に40代に執筆した第1巻の「言志録」に感銘を受けた。力強さがあふれ、勇気づけられる。第121条には「士は独立自信を貴(たっと)ぶ」と喝破する。
 今回読み返してみると、第2巻以降に共鳴した。57歳から10年間に執筆された「言志後録」の第25条には「人の一生は、穏やかな時も、苦難な時もある。人は、これを免れられないので、逆らわず、楽しむようにしたらよい」という趣旨を述べる。80歳から2年間で執筆した第4巻の「言志耋録(げんしてつろく)」では第283条に「身には老少有れども、而(しか)も心には老少なし」と高齢者の生きる方法を述べる。
 4巻の本を通して、一斎の思想の変化が読み取れる。経験によって思考が深められている。

 能楽の神髄を教える古典「風姿花伝」は、世阿弥が30代半ばの働き盛りに大半が執筆された。同書で40代半ば以降は、「面をつけない素顔での能は見られたものでない」と述べる。さらに50歳以後の能楽師は、「もう何も演じないでいるしかない」と冷たい。世阿弥が高齢になった時も同様の考えを維持したのだろうか。

 一度訪れたことがある地域は、ニュースを聞いても理解の程度が違う。小説家には現地を取材しないで書き上げる人がいる。作家の想像力と資料だけでは、どこか違和感が漂う。塩野七生のフィレンツェを舞台にする作品が読者を魅了するのは、現地で暮らす経験があるからだろう。
 年齢も重ねるに従い、初めて気づくことが多い。経験は、人間の思考に変化と深みを与えてくれる。

炭谷 茂

すみたに・しげる

1946年富山県高岡市生まれ。69年東京大学法学部卒業、厚生省に入る。自治省、総務庁、在英日本大使館、厚生省社会・援護局長などを経て2003年環境事務次官に就任。08年5月から済生会理事長。現在、日本障害者リハビリテーション協会会長、富山国際大学客員教授なども務めている。著書に「環境福祉学の理論と実践」(編著)「社会福祉の原理と課題」など多数。

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