社会福祉法人 恩賜財団 済生会(しゃかいふくしほうじん おんしざいだん さいせいかい)社会福祉法人 恩賜財団 済生会(しゃかいふくしほうじん おんしざいだん さいせいかい)

済生春秋 saiseishunju
2023.12.08

第130回 熊と出合う

 今から45年前の早春のことである。
 福井県に出向して自然保護の仕事をしていた。公用車で奥越の旧和泉村に向かっていた。九頭竜川に沿った国道を走る。奥越の早春は、木々の若葉が吹き出し始め、清々(すがすが)しい。春到来を喜ぶ野鳥の声が耳に響く。畑仕事に元気に勤しむ老人の姿がある。
 当時の奥越は、向井潤吉の絵画の世界が点在していた。ああ、これが日本のふるさとだ。心が安らぐ。長くなった都会生活ですっかり忘れてしまった日本の原風景の世界に浸っていた。

 突然、運転していた職員が叫んだ。
「熊がいる!」
 九頭竜川の対岸を親子の熊2頭が、食べ物を探していたのだろうか、ゆっくりと歩いている。冬眠から覚めて日が浅いのだろう。子熊の足取りがおぼつかない。
 広い川幅で水深が深く、急流であるので、川を渡ってくる心配はない。車を止めてじっくりと観察した。50メートルは離れていただろうか、熊の動作はよく見えた。余裕のある私たちにとって野生の親子熊は、かわいく思えた。

 幼いころに親子熊を描いた絵本を読んだ。母熊が上流の浅瀬で魚を掴(つか)んでは子熊に投げるというものだった。子ども思いの愛情深い母親、子熊の無邪気さが印象深く記憶していた。九頭竜川の親子熊の風景と重なり合った。
 福井県の生活は3年間だったが、野生の熊を見たのは、それっきりだった。

 今年に入って熊による人的被害が増大している。熊の駆除に乗り出す自治体も出ている。
 本来、熊は人間を恐れ、おとなしい動物である。しかし、今年は奥地の森のドングリが不作になったことや熊と人間との緩衝地帯だった里山が荒廃したことが、熊被害を増大させている。
 両方とも熊に責任を押し付けられないはずだ。

 私の家の玄関の棚にイギリスで買った五つの陶製のパディントン・ベアがいる。表情が豊かでかわいい。いつも明るく送り迎えしてくれる。
 熊が、人間と安心して共生できる日本のふるさとを取り戻したいものだ。

炭谷 茂

すみたに・しげる

1946年富山県高岡市生まれ。69年東京大学法学部卒業、厚生省に入る。自治省、総務庁、在英日本大使館、厚生省社会・援護局長などを経て2003年環境事務次官に就任。08年5月から済生会理事長。現在、日本障害者リハビリテーション協会会長、富山国際大学客員教授なども務めている。著書に「環境福祉学の理論と実践」(編著)「社会福祉の原理と課題」など多数。

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