社会福祉法人 恩賜財団 済生会(しゃかいふくしほうじん おんしざいだん さいせいかい)社会福祉法人 恩賜財団 済生会(しゃかいふくしほうじん おんしざいだん さいせいかい)

済生春秋 saiseishunju
2015.10.13

第33回 保護より機会を

 その週の平日は、全国的に雨がちな日が続いたが、日曜日の10月4日は、すっきりした秋晴れだった。
 この日は、大分県別府市に本部がある社会福祉法人「太陽の家」の創立50周年記念式典が、天皇皇后両陛下のご臨席のもと、挙行された。式典に参列した私は、「太陽の家」が障害者の生き方として理想を目指して着実に前進していることを知って感動した。

「太陽の家」は、昭和40年、中村裕博士によって設立された。整形外科医だった中村博士は、イギリスのストーク・マンデビル病院で障害者のリハビリにスポーツを取り入れ、成果を上げていることに驚いた。
 私は、昭和58年にストーク・マンデビルを訪れたが、まち全体に障害者の医療やスポーツの施設があり、障害者に住みやすいまちになっていることに衝撃を受けた。中村博士も同様だったのだろう。
 帰国後、中村博士は、昭和39年の東京オリンピックの後に第2回パラリンピックを東京で開催するなど障害者スポーツの普及のために行動した。日本の障害者スポーツの基礎は、彼が築いたと言える。

  東京パラリンピックは、成功裡(り)に終わった。しかし、大会終了後の欧米の選手の顔は明るいが、日本人の表情は冴(さ)えない。欧米の選手は、健常者と一緒に働く職場に戻るが、日本人の大半は、福祉施設や家に戻るからである。
 中村博士の次の目標は、障害者が健常者と同様な仕事ができる職場づくりに移った。いくつかの企業の協力を得て、障害者が生きがいを持って働ける職場を作っていった。
 今では「太陽の家」は、障害者1000人、高齢者100人など1800人が働くまでに発展した。

 中村博士の理念は、「障害者に保護ではなく、機会を」である。失った機能を惜しむのではなく、残された機能を伸ばす。障害者に夢と希望をもたらした。
「太陽の家」にはス-パーマーケットや銀行もある。地域には健常者も居住し、利用する。私が生涯を賭けて、日本での実現を志している「ソーシャルインクルージョン(社会的包摂)」の土台が半世紀の時空を経て完成されつつある。
 澄み通る秋空のように清々しい別府での一日だった。

炭谷 茂

すみたに・しげる

1946年富山県高岡市生まれ。69年東京大学法学部卒業、厚生省に入る。自治省、総務庁、在英日本大使館、厚生省社会・援護局長などを経て2003年環境事務次官に就任。08年5月から済生会理事長。現在、日本障害者リハビリテーション協会会長、富山国際大学客員教授なども務めている。著書に「環境福祉学の理論と実践」(編著)「社会福祉の原理と課題」など多数。

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