社会福祉法人 恩賜財団 済生会(しゃかいふくしほうじん おんしざいだん さいせいかい)社会福祉法人 恩賜財団 済生会(しゃかいふくしほうじん おんしざいだん さいせいかい)

済生春秋 saiseishunju
2024.07.04

第137回 集中力の魔術

 6月末、富山市での用務を終え、帰京するため、北陸新幹線の上り電車をプラットホームで待っていた。20分ほど時間があったため、ベンチにゆったりと座り、読みかけの本を読むことにした。
 憲法学で司法権の限界について論じた固い本だった。裁判でしばしば大きな論点として取り上げられる問題で、半世紀前の学生時代とは判例や学説も大きく変化しているので、興味が尽きない。「部分社会の法理」は、昭和52年の富山大学事件の最高裁判決で用いられ、学会や実務で本格的に議論されるようになったから、学生時代は学んだ記憶がない。
 本に没入しているうちに、新幹線が入ってきたことに気がつかなかった。富山駅で乗降者する人が少なかったこともある。ふと頭を挙げるとホームに電車が止まっている。「あっ」と思って車内に滑り込んだ。

 集中するあまり、大切なことをうっかり忘れてはいけないが、本来一つのことに集中することは、成果を上げる一番良い方法である。
 受験勉強で成功するコツは、限られた時間、集中して勉強することだ。だらだらと長期間、勉強をしても成果を得られない。
 本来、人間には集中する能力が備わっているのではないか。例えば人間の耳は、外部の様々な音から自分の必要とする音だけを拾って聞く。しかし、補聴器を利用している人は、すべての音を拾ってしまうので、会話に集中できないとこぼす。

 先日の将棋の叡王(えいおう)戦で伊藤匠七段は、藤井聡太叡王を破り、八冠独占の一角を崩した。最終戦の模様を報道番組で見ていたら、解説者が「伊藤七段は、集中すると耳たぶが赤くなる」と述べていたが、そのとおりだった。最終戦は一進一退で、一手のミスが勝敗を決定するという好勝負だった。
 対局中の両者の将棋への集中力は、凡人には想像できない。頭脳の中は無数の駒の指し方を検討しているのだろう。膨大なエネルギーを消費して頭脳をフル回転させる。藤井叡王の方も、盤面に極限までに集中していることが伝わってきた。

 日々の仕事や生活の難しい問題も集中して考えれば、解決する方法は必ず見つかるものだ。過去の体験や人からの助言などあらゆるものを総動員して考える。
集中すると、これまで頭の奥にしまい込み、完全に忘却していたことが浮かび上がってくるから不思議だ。集中力の魔術なのだろう。

炭谷 茂

すみたに・しげる

1946年富山県高岡市生まれ。69年東京大学法学部卒業、厚生省に入る。自治省、総務庁、在英日本大使館、厚生省社会・援護局長などを経て2003年環境事務次官に就任。08年5月から済生会理事長。現在、日本障害者リハビリテーション協会会長、富山国際大学客員教授なども務めている。著書に「環境福祉学の理論と実践」(編著)「社会福祉の原理と課題」など多数。

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